バリの伝統芸能における身体性に関するアウトリーチ・イベント(計3件)の開催について(2023年11月25日から12月3日)
2023年11月25日から12月3日にかけて、バリの伝統芸能における身体性に関連したアウトリーチ・イベントを東京外国語大学において計3回開催した。このうち11月25日に開催されたイベントは、参加者自身もバリのケチャや仮面舞踊を体験する身体実践ワークショップとして実施した。
イベント開催の背景
インドネシア・バリ島出身のチアーット氏(本名I Made Agus Wardana)は、優れたバリの伝統音楽の担い手であり、また近年、彼が声ガムラン(gamut/ gamelan mulut)と呼ぶ新たな声の芸能を考案し、バリ島内で注目を集めている。これは、本来20名以上の奏者で演奏されるバリ島の打楽器アンサンブル「ガムラン」を、一人のパフォーマーが声で表現しつつ、録音を重ねてゆくものである。
この新しい音楽がバリ島内で注目を浴びたのは、2020年、COVID-19の流行初期のことであった。当時のバリ島ではNgoyong Jumah (家に居よう)とのスローガンが呼びかけられ、多くの芸能家たちが活動の場を奪われた。そのような時、Agus氏自身が自宅を舞台にして、ガムラン音楽を歌い踊って撮影したビデオ作品は、人びとに新鮮な驚きをもって迎えられ、SNSを中心に拡散した。
今回の招聘では、参加型のワークショップや上演を実施し、彼の芸に様々な角度から光を当て、またそこに参与する経験を提供することを通して、時代に合わせて柔軟に変化するバリ島音楽芸能の魅力や、そこにおける身体性の特性を味わう機会を提供することを目的とした。
チアーット氏は、パンデミックの数年前まで20年以上ベルギーに暮らした経験があり、ベルギーや周辺諸国でのバリ芸能の紹介や、現地のパフォーマーとのコラボレーション、そして現地のガムラン音楽演奏者の指導などを担ってきた。バリの地元のコミュニティを離れ、長年異国で芸能を通じての文化交流を実践してきたチアーット氏は、異なる身体性を持つ文化的他者と芸能を通じたコミュニケーションをはかる上での多様な工夫や経験を蓄積してきた。そうしたチアーット氏の芸・わざに触れることは、文化紹介や異文化理解、文化的他者とのつながりの構築における有効な身振り・振る舞い・身構えとはいかなるものかについて考える契機となった。
以下、同ワークショップの試みが本研究課題「身体性を通じた社会的分断の超克と多様性の実現」(以下、「本課題」)の掲げる社会的分断の超克といった実践的なテーマに関していかなる貢献や成果をもたらしたのかに関して述べたい。
まず11月25日と12月1日に開催されたワークショップでは、参加者がバリ人の講師Ciaaattt氏の指導のもとで、実際に身体的実践(芸能)を身をもって体験することが試みられた。ケチャはバリ島の憑依舞踊の際に歌われたコーラスに起源を持つもので、複数のパートに分かれた人びとが、インターロッキングすなわち、入れ子状になったリズムを歌うシンプルな芸能である。参加者は他者とテンポを合わせながら、他者の発声の自分の声と他者の声がかみ合わさり、一つのグルーヴを生み出すプロセスを経験した。また輪になってケチャを体験する者たちのなかから数名がえらばれ、輪の中でこの声の波に合わせて踊ることを促された。このときCiaaattt氏は、踊り手に選ばれた者たちに仮面をつけさせた。自身の顔を覆うこと、バリの表情豊かな仮面をつけることで、またケチャの声にも触発されながら、参加者は次第に様々な動きを積極的に試すようになっていった。
この試みを通じて、参加者はふだんの日常的な身体の構えや身体の運動の傾向性をいったん停止し、自分自身の変容を促す体験を共有したといえる。それは自他の境界をコーラスや仮面によって揺るがせながら、普段とは異なる身体の在り方へと自らを開いていくプロセスでもある。参加者との会話の中では、体を動かしたこと、Ciaaattt氏の生み出すグルーヴを味わったこと、大きな声を出したことの心地よさや解放感についての感想が多く聞かれた。「コロナで制限されるのが当たり前になっていた事もあり、リアルで集まり、多くの人と共に共有するという事自体がとても大切な事だと改めて感じました」という感想もあり、特にこうした活動をコロナ下が明けて間もないこの時期に経験は、コロナ下に被った自身の身体性の変容に気づきをもたら結果ともなったことが伺える。
また参加者はバリ人講師の語りを通じて、こうしたケチャの営みがバリの共同体の儀礼や行事の中で楽しまれていることを学び、バリにおける身体性や身体的存在としての人々の繋がりへと思考を巡らせた。「ケチャは怖いものと思っていましたが怖くないし自由な物だとわかりました。」といったバリの音楽文化への理解の深化が伺えるような感想もあった。またケチャにトランスの萌芽的な要素を感じたという者もいた。
こうした試みは以下のような本課題が掲げる「多様で変容的な身体に関するパラダイム」すなわち身体の在り方は地域や社会・文化的文脈におうじて極めて多様で差異に満ちたものであるが、また同時にそうした差異は必ずしも固定的ではなく、例えば日本人の参加者がバリ人の身体性を疑似的に体験することを通じて前者から後者への疑似的で一時的な変容や変身を行うことも不可能ではないという気づきに通じるものと考えられる。
この点は本課題が「社会的分断の超克」に関して設定している以下のような問題意識と共振するものである。すなわち、本課題では、例えば障害者や異文化出身の外国人などマイノリティの身体経験を、「どれだけマジョリティの身体に近づける(同化させる)のか」という視点ではなく、むしろ「身体経験は彼ら/彼女ら自身の固有で豊かな経験に裏打ちされた文化(例えば「ろう文化」等)や生活世界を有している」のではないか、という問いから出発する。
そして、本課題では、そうしたマイノリティの身体経験を、マジョリティの側も一時的ないし疑似的に体験(参与観察)しうるような、各種の身体的実践や経験を通じたワークショップ等の手法を構築することを目指している。
これは疑似的(一時的)にマジョリティの側もマイノリティの身体的経験を共有することで、普段は暗黙の裡に分断されている「マジョリティ/マイノリティ」の文化的・身体的境界を越える、いわば、文化越境的な身体実践(Transcultural Bodily Practice:TBP)であると言える。このたび2023年11月に実施したバリの芸能実践を通じたワークショップは、まさにこうしたTBPワークショップのパイロット的な第一段のトライアルとして位置付けることができる。こうした試みは、文化的な背景を異にする外国人や少数民族などへの差別や社会的分断を乗り越えるために、単にレクチャーなど知識伝達を通じた「異文化理解」を通じて行う従来のアウトリーチの試みを越えて、実際に参加者にそうしたマイノリティ等への疑似的な身体の変容を通じたより深いレベルでの他者理解につながりうると考えられる。
先述の例でいえば、怖いと思っていたケチャの音・動きの中に、自由さを感じられるようになることや、トランスという、バリ文化の呪術的な要素としてしばしば異端視されてきた要素が、自身のケチャの身体経験と地続きであると感じられることなどは、ささやかな経験ではあるが、そうした他者理解、他者の身体性の理解、そして自身の身体の可能性への気づきへの小さな一歩と言えるであろう。
12月3日に行われた芸能公演では、Ciaaattt氏が考案作した、声ガムラン(Gamelan mulut)という形式の音楽をデモンストレーションし、観客参加型のパフォーマンスを行った。これは、本来20名以上の奏者で演奏されるバリ島の打楽器アンサンブル「ガムラン」を、一人のパフォーマーが声で表現しつつ、ルーパーを使って録音を重ねてゆくものである。Ciaaattt氏は自らの技を披露するとともに、観客にその一部のリズムを分担させながら、会場を巻き込んで音楽を紡いだ。吉田によるレクチャーでは、これがCOVID-19の流行初期、ステイホームが推進され多くの芸能家たちが活動の場を奪われた時期にCiaaattt氏によって盛んに製作され、当時バリで大変に人気を得たことや、この音楽にはステイホーム中の諸制限を逆手に取った表現をよみとれること等が紹介された。その後、その声ガムランをとりこんだ新しい歌舞劇を、日本人のバリ芸能グループや日本の大学生たちとともに上演した(これは今回のイベントのためにCiaaattt氏とともに創作したオリジナルである)。このような公演やからは、バリ芸能もそこにおける身体性も消して固定的なものではなく時代に合わせて柔軟に変化していることや、コロナ下に経験した他者との身体的な分断とそこにおける芸能の役割などが観客にも実感されたようである。「新しいとりくみが伝統の中から生まれることを知りました」「(声ガムランは)新たなガムランの楽しみ方ですね」「複数人のガムランも一人の声ガムランも、他者とつながる温かみを感じさせる素晴らしいものでした」などの感想が寄せられた。
こうした一連のバリ芸能の実践を通じた体験型ワークショップ、日本人の芸能家たちとバリ人Ciaaattt氏のコラボレーションによる創作活動、そして観客参加型の芸能上演を通じて、日本とは少なからず文化社会的文脈が異なるバリ人の芸能の諸特徴を体験する機会を提供した。参加者たちは、それがバリ独自の豊かな身体感覚に裏打ちされたものであること、しかし芸能を通じてその独特の身体性を味わうことが可能であるということも、実感を伴うかたちで理解できたのではないかと考える。この成果は、ともすると異なる文化や民族などのあいだでの差異や境界が強調され、社会的分断や摩擦へ向かいがちな傾向をはらむ現代社会の状況のなかで、(単に座学による「異文化理解」を越えて)文化的他者を身体的次元を含む深いレベルで理解し、共存していくための示唆やヒントを与えてくれたように感じる。
本課題では、今後もこうした文化越境的な身体実践(TBP)を含むワークショップや活動を通じて、社会的分断を乗り越え架橋するための身体的方策を想像=創造していくことを考えている。
イベント広報ポスター
それぞれのイベントの概要は以下の通りである
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「人類学カフェーーバリ島のケチャと声ガムランを体験しよう」
日時 2023年11月25(土) 10:30~12:00
場所:AA研306号室
チアーット氏による、声ガムランと口琴演奏のデモンストレーションを行ったのち、参加者とともに、声ガムランの要素を入れたケチャを行った。ケチャのリズムに合わせて体を動かすワークのなかで、仮面を用いた即興的な踊りを皆で楽しんだ。
写真 ワークショップの様子 撮影:床呂郁哉 2023年
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「人類学カフェーーバリ島のケチャを体験しよう」
日時 2023年12月1日(金) 17:45~19:15
場所:東京外国語大学附属図書館4Fラボ
ケチャのチャントのパターンおよび、歌唱部分を中心に参加者とともに練習・実演した。ケチャのパート別のリズムパターンを図示し、すべてのパートが入れ子状になって一つの音楽を作りだしていることを説明した。また最後には、ケチャのリズムに合わせて体を動かすワークのなかで、仮面を用いた即興的な踊りを皆で楽しんだ。
写真 ケチャのリズムパターン 撮影:吉田ゆか子 2023年
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芸能公演&ミニレクチャー「バリ島の音楽と歌芝居にふれよう」
日時 2023年12月3日(日) 15:30~17:30
場所:東京外国語大学プロメテウス・ホール
プログラム
- ガムラン・ググンタンガン演奏 (出演:マメタンガン)
- バリ舞踊パニャンブラマ (出演:東京外国語大学インドネシア舞踊部)
- ミニレクチャー「コロナ状況下のバリ芸能と声ガムラン」(講師:吉田ゆか子)
- 声ガムランのデモンストレーション (出演:チアーット)
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- 創作歌芝居ジャンゲル(出演:チアーット&マメタンガン&インドネシア舞踊部)
バリ芸能を上演する日本人グループ「マメタンガン」と、東京外国語大学のインドネシア舞踊部の協力を得て、バリのいわゆる伝統芸能にくわえ、チアーット氏の声ガムラン、およびそれを用いた創作劇を中心とした芸能公演をおこなった。また、声ガムランがCOVID-19パンデミックの中で注目を浴びた新しい芸能ジャンルであることや、そこにはステイホーム中の諸制限を逆手に取った表現をよみとれること等についてもレクチャーの中で紹介し、伝統芸能と革新、芸能における集団と個、芸能と場や空間、パンデミックの芸能へのインパクトなどのテーマについて考える機会とした。
図 創作劇ジャンゲールの様子 撮影:上原亜季 2023年
写真 (左)創作劇ジャンゲールの様子 (右)観客参加型のパフォーマンス 撮影:上原亜季 2023年
映像の創作劇ジャンゲールにおける声ガムランのシーン
https://www.youtube.com/watch?v=8N8iF3u6gY